もともとは登り窯の壁や、窯道具の廃材を利用した、いわばリサイクルの塀です。土塀の為、もろく一時姿を消しつつありました。有田町が1983年に調べたところでは、総延長が875m。86%が上有田地区にあり、上有田地区でもその半分が、泉山のいちょうの木から大樽の陶磁美術館までの通りにあり、「トンバイ塀のある裏通り」と呼んでいます。
江戸時代、商人が町すじに店を構えていたのに対し、窯焼は本通りからはずれた人通りの少ない場所に住み、屋敷と仕事場をトンバイ塀で囲み製陶技術の秘密を守ろうとしたようです。
材料は登り窯を築くのに使った四角いレンガの事で、赤土とその焼粉を混ぜて固めたもの。