有田が磁器生産を専業とし、本格化していく段階の初期の窯の1つである。昭和40年から45年にかけて本格的な考古学調査が行われ、少なくとも5基の以上の階段式連房式登り窯が築かれていました。現在は登り窯を復元する為の調査が行われています。
陶祖李参平ゆかりの窯といわれており、李参平との関係については、子孫である金ヶ江家文書の中に、先祖が泉山で陶石を発見したあと、「水と薪に便利だったので最初は白川天狗谷に窯を築き絵描き、細工の技術を教え、次第に繁盛した」とあります。