豊臣秀吉が朝鮮出兵した際に、各地の大名は朝鮮の陶工を連れて帰り焼物の生産に従事させました。その際、佐賀藩に連れてこられた陶工の中に金ヶ江三兵衛がいて、多久家につかえた後、1616年に有田に移り住んだとあります。江戸後期の「金ヶ江家文書」の中に三兵衛が李と称していたとあるので、李参平と称するようになった。長い間、墓碑は倒れていたので、頭部は破損している。墓碑の存在自体忘れられていたが、昭和32年に偶然発見された。西有田の龍泉寺の過去帳に墓碑に書かれているものと同じ戒名が書かれていたので、李参平の墓であることが確認されました。李参平の墓は、昭和12年に朝鮮出身の方によって建てられたものもあり、金ヶ江家の墓を含めると3つある事になります。