碑は1705年に建てられたもので、長い年月を経た為に風化していますが、元和4年ごろ武雄領内田村で焼物を焼いていた深海宗伝一派の960余人の陶工が通称百婆仙と呼ばれた宗伝の未亡人に率いられて稗古場に移住し、そこに窯を築いて焼きはじめた事が記されています。宗伝は、武雄の領主後藤家信が朝鮮出兵から帰国する際武雄の広福寺の別宗和尚について来て、武内の内田に窯を開きました。宗伝の死後、妻の百婆仙は子の平左衛門と協力して焼物を作り続けます。このころ有田を中心として磁器製造が活発になったので、磁器を焼こうとしたようですが、内田では良い磁器を焼く事が困難であった為、有田に移り住んだようで、有田でも多くの朝鮮人陶工から尊敬され有力な地位にあったようです。