有田の歴史/黒牟田・応法の今 |
![]() 元和2年(1616)李朝陶工李参平によって有田泉山に磁器の原料が発見されたといわれている。この陶石を用いて我国最初の磁器が作られ、有田は白磁染付の産地として次第に知られるようになった。陶工達は良質の原料を求めて有田へ集まり、窯の数も急激に増え日本で最初の磁器生産地として発展してゆく。有田焼は伊万里港から積み出されたため、当時は伊万里焼と呼ばれた。正保3年(1646)ごろになると、酒井田柿右衛門によって上絵付(赤絵)の技法も始められ、中国の磁器とかわらないものも出来るようになった。磁器の製法や赤絵の技法はその技術が他国へもれないように藩によってきびしく監視された。赤絵師の多くが住んでいた地域は赤絵町とよばれ、その名は今日まで続いている。 |
黒牟田・応法の窯元はその創業から今にいたるまで、先人達の幾多の努力により絶えることなく発展し続けてきた。数々![]() |